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赤子と青年。 | 2008年02月28日(木) |
老いた女が生まれたばかりの子供を抱いている。 むずかる子供を慣れた手つきで優しくあやして夢の国に送り出した彼女はふと視線を上げ、縁側の向こう、庭の池の淵に佇む美貌の青年に微笑んだ。 「どうせならこっちにいらっしゃいな。かわいい子でしょう?」 「……そういうものは、僕は苦手なんだ」 目を合わせるのを巧みに避け、彼は困ったように首を傾げた。 「往生際の悪いことを言っていないで、ほら」 「あなたは僕がどんな存在か知っているでしょう。いいよ」 「困ったわ。もうさっきから腕がしびれてしびれて、ああ、落としてしまいそう」 平坦な口調でそんなことをのたまう老婆に彼の胡乱げな視線が突き刺さる。 「平然とした顔で漬物石を抱えて母屋と離れを往復できる人間が何を言っているのだか」 「いいから一度抱いてみなさいな。かわいさにとろけそうよ」 「初めての孫娘だものね」 心底嬉しげな彼女を眩しげに見つめて、青年もほろっと笑みをこぼす。 「そうよ。それなのにあなたはこの子を祝福してもくれないのね」 「呪うことしかできない僕に祝福なんてそんな無茶を言うのはあなたぐらいだよ」 呆れたように溜息をつく彼は、それでも一歩踏み出した。 「祝うことも呪うことも宿る感情が違うだけで同じマジナイだわ」 ほらほら、と孫娘を押し付けてくる彼女に負けて、彼はついに赤子をその両腕に抱いた。 おぼつかない手つきで見知らぬ青年に抱かれた赤子は、眠りからふっと目覚め、真顔で彼を見上げた。 注がれる視線には嫌悪も好意もなく、慣れぬ視線に彼は所在なげに肩を揺らす。 赤子との邂逅に戸惑う青年を愉しげに老婆は見守り、突然「そうだわ」と明るい声を上げた。 「な、何?」 「あなた、その子に名前をつけてあげてちょうだい」 「……正気?」 ぎくしゃくと赤子を揺らしてあやしてやっていた青年は、唐突な提案に目を丸くする。 「僕に名付けをさせることがどういうことだか分かってる?」 「その子にとっては丁度良いお守りになるわ」 「なるわけないでしょう!」 彼が上げた大声に反応してか、その腕に抱かれていた赤ん坊がぎゃあと泣き出す。 こっちが泣きたいと言いたげなばかりに途方に暮れて子供を見下ろす彼に、しかし与えられたのは助言ではなく愉快そうな笑い声だった。 「……ねえちょっと」 「名前をつけてあげてちょうだいな」 「それよりこの子泣いてるんだけど」 「女の泣かせ方は分かっても赤子の笑わせ方は分からない?」 滑稽ねえ、と笑む老婆を彼は威勢良く睨めつける。 「泣いてるのは、あなたの孫」 途端、泣き声が一層大きくなり彼はあわあわと赤子をゆする。 「おばかさんねぇ。赤ん坊だって、自分を抱いているひとの感情くらいは読み取れるわ」 「……返す……」 「おばあちゃまは少し疲れちゃったから、そこのお兄さんにもうしばらく抱いてもらってちょうだいな」 彼女は孫娘に非情な言葉を投げかけて縁側にふんぞり返り、青年は先ほど祖母と孫娘の睦まじい様子にうっかり感動しかけたことを後悔した。 「いいから、その子に名前をつけてあげて」 「そういうことは親の仕事だと思うけれど」 「ウチの旦那と娘夫婦が名付けのことで大モメしてね、中立だった私に白羽の矢が立ったのよ」 ちなみに夫は撫子で娘夫婦は絵梨衣とか言ってたわねえ、全然方向性が違うわと彼女はからから笑う。 「……それならあなたがつければいい」 「私はあなたに任せたの。その子が一生名無しで良いっていうのなら別にそれでも構わないけど」 「悪魔に情を期待しても無駄だと思うけれど」 はあ、と溜息をついた彼は、ようやっと泣き止んだ赤子の表情がまた歪むのを見て取って慌てて大丈夫ですよーと必死な声を投げかけた。子供に向ける笑顔はかなり引きつっている。 「ホラ早く。あなたに名前つけられたぐらいで私の孫娘が不幸になるわけないじゃない」 「……じゃあ……」 これは言うとおりにするまで逃れられないなと諦めた彼は渋々頷き、改めて赤子を見つめる。 生まれたばかりの、まだ何も知らないまっさらな子供。 彼女の一生にふさわしい、祈りと希望に満ちた名前を彼は考えなくてはならない。 ****** 気弱(でもないはずなんですが)悪魔と実は強いおばあちゃん。 本筋は孫娘と悪魔の話。 |