「……事故、か」 何度も深呼吸を繰り返すと、ちょっと過剰な反応をしていると自分でも思った。そもそも優はバイクで転んだとは言ってなかったのではないか。先ほどのやり取りを何度か頭の中でリプレイしてみるも、確信は得られなかった。 涙は出ていなかったようだ。念のためウエットティッシュで乱暴に顔を拭き、ジーンズとシャツに着替える。部屋のドアを開けると、待っていたかのように階下では優がリビングから顔を出した。 「転んだのって、バイクでだよね」 そう尋ねれば、眉尻を下げたまま優は頷く。 「……ごめん。気をつけるよ。本当に」 家から勤務先までは結構な距離がある。交通機関に恵まれなかったため、優はこの家に来てからずっとスクーターで通勤していた。もちろん母も。 「車で行けば?」 二人でスクーターよりは車のほうが良いだろうと、黄色い小さな車を買ったのは母が亡くなる直前だった。納品があと数日早ければ。 「……うん。そうは、思うんだけどね」 「バイクよりいいんじゃない」 優は困ったような笑みを浮かべる。 「考えちゃうんだよね。何でもっと早く買わなかったとか。何で、隣に……居ないのか、とか。そんなんじゃ危なくて運転できないよ」 階段を降りきると、自分の顔よりも少し高いところにある優の顔がよくみえる。ほんの少しだが目元が赤い。 「……ちょっとだけ、抱きついてもいい?」 そう言って突然優に抱き寄せられた。どうやらスイッチが入ってしまったらしい。こうなったらひとしきり泣ききるまで泣かせたほうが良いというのを、この二ヶ月で学んでいた。 「最初にショックを受けたのは、俺だったはずなんだけどな」 そう呟くと、優はそっと身体を離して苦笑した。泣いたせいで上気した頬と、涙に濡れた顔をエプロンで雄雄しくぬぐう。ひよこがよれよれだ。 「……たいした怪我じゃないんだ。小学校の角を曲がろうとしたら、鳥小屋になぜかウサギが居てさ。何でだろうと思ってたら側溝に落ちちゃったんだよ」 「は?」 「小学校の近くだからさ、ものすごくゆっくり走ってたし。おでこは、落ちたときにハンドルにぶつけただけで」 挟んだ疑問符はきれいに無視して、優は一生懸命に状況を語っていた。 「でも、不思議だよね。ハトとウサギは捕食関係でもないし。ウサギ小屋も別にあるし」 「もともとがウサギ小屋なの。ハトを育てるようになったとき小屋を新しく建てるタイミングをのがして、とりあえずウサギ小屋に入れて育て始めたんだよ」 そうだ。小学校五年生のときに、紫が怪我をしたハトを拾ってきたところから第二小学校のウサギ小屋にはハトが住まうようになったのだ。 「ああ、そうなんだ。なるほど」 優はお玉を持った手を振り回して納得している。わが父ながらなんと言うか、のどかというか、とろいというか。 「すっきりしたよ。瞬(シュン)くんも育てたの?」 「僕は……鳥が苦手で」 優は「ああ」と苦笑した。 「食べるのだけじゃないんだね」 そう言って少し嬉しげに笑う。 「なに、その笑い。苦手だって言ってんのに」 鼻歌混じりで居間へと戻っていく年若い父親の背に不満を投げた。 「息子の苦手を知ったので、親子ポイントが五ポイントくらい増えたよ」 居間には優お手製の微妙な表が貼ってある。母が生きていた頃に二人で考えたという「親子ポイント制」の換算表だ。二人の間に親子としてのイベントがあるとポイントが増える。五ポイントにつきシールが一枚貼られていくのだ。 「あと三枚で五十枚に到達だよ」 「……何だっけ。映画に行くんだっけ。……男二人で」 ガックリと肩を落とす瞬に対し、優は嬉しげにお玉を握り締める。 「百枚溜まったらお墓を買うからね。かおりさん」 写真の母も苦笑したように見えた。
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