カエルと、ナマコと、水銀と
n.446



 十七歳の夏、彼女は深夜の屋上にのぼる

=十七歳の夏、彼女は深夜の屋上にのぼる=

 深夜二時の屋上。そのとき私は、私である。彼でも、彼女でも、俺でも、僕でも、アタシでも、なくて、一人称としての私。性別は関係ない。私という個は、深夜二時に吹く夏の、すべてを腐らせ、駄目にし、いつのまにかその活力を奪ってしまうかのような生ぬるい風に吹かれ、屋上の柵にもたれかかっている。私は、車のヘッドライトがアスファルトの上を流れていく様をみつめている。長めの重い髪は、されるがままに、遊び、私の視線をせばめている。
 美しい。死に際。
 私は、いま、完璧さについて考えている。私は、いま、完璧さについて考えていることをしらない。きっと、二つの眼のうらがわには、情報を理論的、かつ、打算的に処理する脳みその部分があって、彼らは、退屈なレンタルビデオ屋のアルバイトのように、夜明け前のコンビニエンスストアで若者があくびをかみ殺すように、さらに言えば、まったく理解できない授業を眠ることもできずただ、ひたすら教科書に落書きをふやす生徒のように

 うずうずと刺激を欲している。

 そんな脳みその部分は、退屈まぎれに完璧さについて考えている。それを、私は、「私は、いま、完璧さについて考えている」と呼べるのか知らない。「私は、いま、完璧さについて考えていることをしらない」と、付け加えることにしてみる。ささやかな完璧さのために。

 完璧さ。美しい死。
 完璧さ、と、美しい死、そのあいだに私は、化学でいう二重結合のような強い結合を感じる。現実に根付いた日常に、完璧さも美しい死も存在しない。対人関係はこじれ、私の肉体さえ、私の思考さえ、私の意に反さないことはない。同時に、美しい死さえも存在しない。青白い肢体、魂を失った容れもの、落ち着いた頬の曲線。切り取られた完璧さは存在しようとも、流れゆく完璧さの皆無。落下ぎわのはためき、柵越しに見つめる目、青く澄んだ呼吸、脱げかけた片方の皮靴、美しく投げ出された黒髪と、手足。
 くずれる、つぶれる、はいせつされる。とびちらかされる。処理されては、きっと、誰かが黒い言葉を言う。



                  そうね。きっと、私。


2008年08月11日(月)
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