飛行時間
Nyari



 夜の散歩

チャンスのカギは冷蔵庫の中にもそっと隠れている。

夜7時半、なんとなく冷蔵庫をあけたら、牛乳パックの中身がほんの少しだけしか残っていなかった。

コートを着て、木綿の買い物袋を肩からさげて、玄関を出る。すると、一つ下の階のトルコ人のおじさんも、最近お兄ちゃんになったばかり2歳の男の子と、出掛けるところだった。おじさんもスーパーへいくという。

歩いて5分の道のりを、乳母車を引いたおじさんと二人でスーパーへ。

「おじさん、ドイツ語上手だね、いいな。もう何年勉強しているの?」

「そうだね、かれこれ20年以上もだなあ」

おじさんは20年以上もこの街で暮らしているそうだ。

「家の中でも、ドイツ語も話すようにしてるんだよ。そうすると、この子が言葉を覚えるのに役にたつからね、この子はもうドイツ語も少し話せるんだよ。生活の中で触れていくと学校へいってから困らないだろう?」

おじさんの家族は全員トルコ人。だから本当は家の中ではドイツ語は必要ない。でもおじさんは使っているという。

ふいにおじさんが真剣になった。

「あのね、私はね、最初にしっかり学ばなかったんだよ。でも、きちんと学ぶことはとても大切なことなんだ。」

ドイツ語の単語は名詞に3種類の性がある。
男性、女性、中性。性によって別の冠詞がつく。これは覚えるのがとても困難で、いけないと知りながらも、冠詞抜きで話してしまうことが、いつのまにか私は癖になっていた。

「全ての名詞に冠詞がついてるだろう?あれをね丁寧に一つずつ覚えるということはとても大事なんだよ。毎日10個の新しい単語を、冠詞をつけないで覚えるよりも、きちんと冠詞と一緒に3個の名詞を覚える事の方がずっとずっと重要なんだ。」

私は首をすこし斜めに傾けた。

「本当なんだよ。なんとなく分かるたくさんの言葉よりも、きちんと覚えた3つの言葉が増えていくことのほうが後になってずっと役にたつんだ。20年も暮らせばね、もう、10000語以上のドイツ語の言葉の意味がわかるけど、でもきちんと話せないんだ。文章もきちんとかけない。ここへ来てすぐに働かなければならなかったから、言葉の構造を学ぼうなんて考えもしなかったんだよ。」

「でも、語彙を増やす事はとても大切なことでしょう?言葉の意味がわからなかったら何もわからないもの。間違っていてもどんどん吸収しなければ暮らしていけないよ。」

「慌てて覚えるとね、必ず後で失敗する。後から一つ一つに冠詞をつけて覚え直すのはもっと難しい。本当なんだ。はじめが肝心なんだ。焦ってはだめだよ。毎日3つでいい。きちんと頭のなかに入れるんだ。暮らすことはすぐに出来るようになる。」

20年も母国を離れてこの街に暮らすおじさんの言葉は胸にズシンと響いた。そして、おじさんの真直ぐな目から、私はこんな言葉が聞こえてきた。


『メサキノコトニ、トラワレルナ』


それから、スーパーに着いた。大型スーパーは1階が生活雑貨と衣類で、地下が食料品売り場。私は、牛乳を買いに来たのだから、地下で買い物だ。

「おじさんは、何を買いに来たの?」

「うん?いや、買い物はほんの少し、リンゴをね。でも、散歩が先だから、じゃあ、さようなら。」

「散歩?」

私達はもうスーパーの中にいた。

「うん、この子とね、このスーパーの1階を散歩するんだよ、それで一緒にいろんな言葉を覚えるんだ。じゃ、いこうね。」

男の子は足を上下に振って答えた。

おじさんは乳母車をひいて、いろんな雑貨の棚の向こうに消えていった。少し離れたところから、「これは青色。これは歯ブラシ。これはタオル…」おじさんの大きな声だけがかすかに聞こえる。

私は地下へ降りていった。

買い物袋を肩にかけて、帰り道を歩きながら、おじさんに言われた事を考えていた。

言葉が理解できないことが、いつでも負担になっていた。新聞を読んでも、テレビをみても、病院へ診察へいっても、分からないことが、分かることの100倍以上ある。ひどい時になると、何が分かって何が分からなかったかさえも気がつかないこともある。

どんなに勉強しても、分かるようになったことより、分からないことの多さに絶望して、自分に腹がたつばかりだ。単語の本をなんどバラバラとめくった事だろう。なんとなくでいい、単語をみて、なんとなくの意味がつかめればそれでいいんだ。そう思って、毎日何十という言葉を、目と耳と口を通して垂れ流してばかりいた。

そして、何かを掴んだのか、それとも掴まなかったのかわからないままに、こんなにたくさんの言葉にふれたんだから、大丈夫だ。そう言い聞かせていた。でも大丈夫と言い聞かせる向こう側で、分からない事に対する不安が暴れていて、その不安をかき消すようにまた単語の本をバラバラと何回も何回もめくっていたんだ。


歯ブラシ、タオル、青色…1年以上も前に覚えた言葉。


だけど、青色の性が男性だったか女性だったか、とっくに忘れてしまった。


『メサキノコトニトラワレルナ』


おじさんを通して私に与えられた、無言の声。
柱のぐらつく家は、小さな地震でも壊れてしまう。そんな家に暮らしていたら、毎日が不安の連続だ。


先ずはしっかりと柱を埋め込もう。

私という大地の奥へ。












2004年02月15日(日)
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